2005年12月12日

パーソナルスペース 2 【満員電車】

あの頃、僕は一人の女性に恋をしていた。
彼女の発する声が好きで、一時間呆けていた事がある。
その声を聞くために、退屈な授業を抜け出して別の教室にもぐりこみ、
あとでバレて反省文を書いたこともある。

パーソナルスペース 2 【満員電車】

彼女・・・かおるさんは、英語教師だった。

かおるさんの発するひと言ひと言が、汗臭い男子校の空気を凛と澄んだ
ものに変えた。
けど、僕はただ、その声を、言葉を聞いていることしかできなかった。

修学旅行。
僕らのクラス行動に引率でついてきたかおるさんに、一度だけ、勇気を
振り絞って聞いたことがある。

「かおるさんにとって、生徒って恋愛対象になるんですか」

ふふっ、と微笑み、その天使のような声で最も残酷な言葉を発した。

「ごめんね。私、もうすぐヴィンスキー先生と結婚するのよ。
 みんなにはまだ内緒だけどね。」

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身長190cm。
学生時代はラグビーで輝かしい成績を残している。
くすんだ色の金髪と、深い灰色の瞳。
ハーバードで日本文化に関する博士号を取得している。

正直、勝ち目ない訳で。

こんな男が、僕の制空権をこれ以上ないほど侵犯している。

300㎝、120㎝、80㎝。そして頭上20cm。
今の距離感は、わずかなパーソナルスペースを確保するための距離ではなく
僕と、勝ち組ヴィンスキーとの間にある埋めがたい距離だった。


「密着した満員電車の中で、パーソナルスペースを確保できない状態のとき、
 人は周囲の人間を単なるモノとして認識することで自意識を保つ」


突然、ふと思い出した。
昔、何かの本で読んだ気がする。
もしかしたら覚え違いかもしれないが、少なくとも今は、自分の保身のためには
最も有効な手段に思えた。
コイツは、単なる壁。デカい壁。

越えられない壁。

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もうすぐ、最寄り駅に着く。
この状態から開放される。
けど。

けど、コイツには聞いておかなきゃいけない事がある。

「Ah...SorrySorry. あの、かおるさんて、今どうしてるんですか?」

のべつまくなしにしゃべり続けていたヴィンスキーの動きが、止まった。

「かおるは・・・かおるは、もうイナイよ」

どういうことだろうか?

「詳しくはナイショだーよ」

最後に、儚く笑ったのが印象的だった。

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かつての同級生たちのネットワークから、二人は僕らが卒業後しばらくして
別れていた事がわかった。

理由は、かおるさんが自分の教え子と駆け落ち同然に去っていった、とか
教え子を誘惑したのがバレた、とか、とにかく大筋はかおるさんがあの大男
より生徒を取った、というところらしい。

あの時、もう少し話を聞いてやればよかったな、と思うと同時に、もしかしたら
ヴィンスキーが捨てられた原因は

「距離感の掴めなさ」

だったのかも知れないな、とふと思った。

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あの頃、僕はかおるさんのパーソナルスペースに踏み込むことができなかった。
安易に近寄らせないオーラを出していたし、何より今も変わっていないが
やっぱり僕はヘタレだったんだと思う。


そして今、僕のパーソナルスペースに残るかおるさんは、あの印象的だった
声だけになってしまい、もはや顔もおぼろげにしか思い出せない。
満員電車の中で、僕らが周囲をモノとして認識するように、過ぎ行く時間は
生々しく色づいた思い出を、ただの物質に変えていく。



今日もまた、終電2本前の満員電車に揺られながら、そんな思索にふけってみた。


本編もよろしく

ランキングくりっくよろしくちゃん。


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Posted by miya/みや at 23:59│Comments(0)2005年12月NW
 
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